2009/03
社会インフラ ―ガス―君川 治


ガスの資料館
左が「ガス灯館」で右が「くらし館」

東京瓦斯発祥の地


日本で最初のガス灯



 横浜は今年開港150年の記念すべき年。馬車道にある日本で最初のガス灯の説明には
「安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。ガス灯は明治5年(1872年)に高島嘉右衛門の『日本ガス社中』により馬車道・本町通り等に点灯され、日本における最初のガス灯となりました」と説明されている。
 高島嘉右衛門はガス事業の他、横浜−新橋間の鉄道用地を埋立てて提供し、現在も高島町と名前を残しているほか多くの事業を起こした事業家だった。同時に優れた易学者で「高島易断」の本を著わして有名である。
 但し、現在継続している「高島易断総本部」とか「高島易断総本家」などは高島嘉右衛門とは無縁で 子孫に「易」を継いだ人は誰もいない。
 平成7年1月17日に発生した兵庫県南部地震(通称阪神・淡路大震災)は死者6402人、家屋の全半壊46万所帯、被害総額10兆円の大災害であり、未だ記憶に生々しく残っている。鉄道、道路、電気、水道、ガスなどの公共インフラの破壊により通常の生活が出来なくなった。どのインフラも大切だが、都会では熱源をガスに頼っている世帯が多く、炊事が出来なく携帯コンロのみが頼りとなった。都市ガスの普及率は東京・大阪・新潟が100%に近く、全国の普及率は約80%である。阪神・淡路大震災では86万戸でガスの供給がストップしたが、大阪ガスは全国のガス会社の支援を得て9700名体制で復旧活動を進め、順次供給を再開して85日で全て復旧させた。
 明治以降、ガスはどのようにして国内に普及していったのか、小平市にある「ガスの資料館」を訪ねた。レンガ造りの建物が2つあり、「ガス灯館」は明治42年建築の旧東京ガス本郷出張所、「くらし館」は明治45年建築の旧東京ガス千住工場計量器室を復元したものだ。ガス灯館にはガス利用を開拓した人たちの歴史や明治の初めに使用されたガス灯が展示してあり、くらし館には明治の初めから今日までのガスの利用形態の変遷とガスの供給方法についての説明展示がある。
 電気に比べてガスの開発を知る人は少ないと思われるので、先ず、ヨーロッパでのガスの開発について眺めてみる。

 1609年 ベルギーの医化学者ファン・ヘルモント(1577−1644)が石炭を燃やすと空気と異なる気体が出ることを発見。
 1792年 イギリスのウイリアム・マードック(1754−1839)が球形の金属容器に石炭を入れて加熱して、水素・一酸化炭素・メタンなどのガスを発生させた。石炭ガス製造工場を作り、照明用に使用した。ガス事業の父と言われている。
 1801年 フランスのル・ボンがパリのホテルでガス灯を公開実験した。
 1807年 フレデリック・ウインザー(1763−1830)がロンドンにガス街灯を点灯した。
 1812年 ウインザーはロンドン・ガスライト・アンド・コークス社を設立。

 便利な都市ガス事業は1816年アメリカのボルチモア、1819年パリ、1825年アムステルダムとヨーロッパに広がり、1862年に上海・香港に伝わり、それから10年後の1872年に横浜でガス灯が点灯された。
 我が国では1837年に蘭学者宇田川榕菴によって翻訳された「舎密開宗」にガス製造の原理が載っており、この本を読んで最初のガス製造実験をしたのは南部藩医の島立甫、江戸亀戸の自宅で1840年ごろ、石炭を乾留して竹筒の先で点火したのが最初と言われている。有名なのは薩摩藩主島津斉彬が1855年に磯の別邸の石灯篭にガス灯を灯した実験で、今も仙厳園の庭には実験に使用した「鶴灯篭」がある。
 我が国でガス灯を実用化した最初は大阪造幣局で、1871年に動力燃料のコークスを製造する時に出来るガスによりガス灯を点灯した。
 我が国の最初の都市ガスは横浜から始まった。居留外国人がガス製造を神奈川県知事に申請すると、これに反対した高島嘉右衛門は「日本社中」を結成し、上海瓦斯会社頭取のフランス人技術者アンリー・プレイグランを招聘してガス事業を起こした。伊勢山下にガス製造所を作り、馬車道・本通りにガス灯を点灯したのが1872年9月である。
 東京にガス灯が付いたのは2年後の1874年12月で、東京会議所が高島嘉右衛門とプレイグランに、ガス工場の建設とガス灯の設置工事を依頼した。最初にガス灯が付いたのは金杉橋から芝・銀座・京橋あたりで、横浜と東京のガス灯設置を指導したプレイグランは「本邦ガス灯の父」と言われている。
 東京会議所のガス事業は1874年に東京府に移管され、1885年に民間に払下げられて東京瓦斯会社となる。この間、東京府瓦斯局長は渋沢栄一、東京瓦斯は浅野総一郎、大倉喜八郎、安田善次郎などが設立した会社で、初代社長は渋沢栄一である。
 渋沢栄一は幕末、最後の将軍となった徳川慶喜に仕え、1867年に開催されたパリ万博に幕府使節団の一員として渡欧して見聞を広め、維新政府では大蔵省の紙幣頭に採用された。その後、国立第一銀行設立の他、王子製紙、東洋紡、帝国ホテルなど多くの事業を手掛けた経済界の大御所であり、「出来レース」との批判も無かったようである。
 横浜でスタートした日本社中のガス事業も横浜市瓦斯局に移管され、明治19年(1886)に東京瓦斯に合併した。照明用のガス事業は苦戦し、渋沢栄一はガス供給量を大幅に増やして経営安定化を図るが、明治20年代後半からは電燈との競合が始まり、再び困難にぶつかる。このため、ガス事業は横浜・東京・神戸の3地域のみで全国的な広がりとはならなかった。
 その後、ガス事業は光から熱へと転換を図りながら日露戦争以降急速に需要が拡大し、東京瓦斯では大正11年(1922)に燃料用が照明用を逆転した。
 ガスの製造装置はヨーロッパからの輸入技術に頼り、当初は石炭乾留(蒸し焼き)によるガス製造であった。この時代が長く続き、石油を熱分解する製造方法に転換するのは戦後の1955年代から、更にLNGを使用するようになるのは1970年代からである。

 視点を変えて環境破壊面から考察してみよう。昔は熱エネルギーを薪炭に依存していた。これにより森林が燃料用に伐採されて森林資源が枯渇してきた。
 この対策として登場したのが石炭である。石炭は蒸気機関の燃料として使用されるが、イギリスの ロンドンや工業地帯は煤煙による空気汚染に悩む。
 ここで登場したのがクリーンなガスとコークスであった。このガスを更にクリーンエネルギーとしたのがLNGで、天然ガスを液化する時に不純物を取り除くことが出来る。しかし、産業が大規模化し、先進国と称する国々の消費が膨大になれば、環境破壊は止むところを知らない。
 ガス灯が点灯された当初、カソリックの総本山ローマ法王庁は「夜を明るくすることは、神が作られた昼と夜の世界を冒涜するもの」と異を唱えたと言われている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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